1. フック:売れた事実
矢野経済研究所が2025年7月28日に発表した調査結果によると、2024年度の国内フェーズフリー商品小売市場規模は232億円と推計され、前年度比125.4%という大きな伸びを記録した。同研究所はさらに2025年度は315億円(前年度比135.8%)、2026年度は470億円(前年度比149.2%)まで拡大すると予測しており、この予測通りに推移すれば2024年度から2026年度のわずか2年間で市場規模が2倍以上になる計算になる。防災という一般に「めったに買い替えない」低頻度消費カテゴリで、これだけの成長率が2年連続で見込まれていること自体が、市場構造そのものに変化が起きていることを示唆している。
2. 背景と狙い
「フェーズフリー」は、防災の専門家として活動してきた佐藤唯行氏が2014年に提唱した概念で、「日常(フェーズ)と非常時を分け隔てず、どちらの状況でも価値や機能を発揮する商品・サービスをデザインする」という考え方である。2015年に任意団体「フェーズフリー総合研究会」が発足し、2018年12月には普及を目的とした一般社団法人フェーズフリー協会が設立、2019年からは第三者認証制度である「フェーズフリー認証」の運用が始まった。
この発想の背景には、従来型の防災用品カテゴリが抱える構造的な弱点がある。非常食や防災グッズは「買ったら押し入れにしまって存在を忘れる」性質のもので、消費者が繰り返し購入する動機に乏しく、メーカー・小売双方にとって収益化しにくいカテゴリだった。フェーズフリーは、この弱点を「防災専用品を作る」のではなく「すでに日常的に消費している日用品・文具・キッチン用品・家具などを、非常時にも役立つよう設計し直す」という方向で克服しようとする発想である。矢野経済研究所も市場拡大の要因として「既存の生活用品をフェーズフリーとして再定義した商品が好調な売れ行きを示したこと」を筆頭に挙げている。加えて、EC等の販路多様化、自治体(徳島県・東京都・神奈川県等)の発注仕様書や総合計画への組み込み、企業のBCP(事業継続計画)対策やサステナブル経営を背景とした採用拡大も、市場の後押し要因になっている。「もしもの時のためだけに買う」商品から「毎日使うから自然と備えになる」商品へと発想を転換したことが、この市場拡大の核にある。
3. トレードマーケティング視点の分解
フェーズフリーは特定の1社が主導する企画ではなく、青山商事、アシックス商事、エース、大東建託、コクヨ、三菱鉛筆、明治、森永乳業、YKK APなど業種を問わず30社以上が参入する市場全体の潮流である点が、他の記事で扱う個別商品企画とは性質が異なる。
流通
メーカー視点:フェーズフリー商品は防災専用の特殊チャネルではなく、文具売場・キッチン用品売場・家具売場など既存の日用品チャネルにそのまま乗せられるのが最大の利点である。防災専用の卸経路や特設売場を新たに開拓する必要がなく、通常の商流にフェーズフリー認証マークが付いた商品を1品追加するだけで済む。
小売視点:小売にとっても、防災コーナーという年に数回しか客が立ち寄らない棚に頼らず、日常的に回転する売場(文具・キッチン用品等)の中でも防災訴求ができるという二重の露出機会を得られる。
価格
メーカー視点:フェーズフリー商品の多くは、通常品に非常時対応の機能(携帯性・保存性・多用途性など)を追加した上位グレード品として位置づけられ、通常の同カテゴリ品よりやや高い価格帯で販売される傾向がある。
小売視点:一般に機能追加型の上位グレード品は通常品より粗利率が高く設計されていることが多く、小売にとってもフェーズフリー商品は客単価と粗利の両方を押し上げる商材だった可能性がある(個別の卸条件・粗利率は非公開のため、一般的な業界傾向からの仮説にとどまる)。
棚割り
フェーズフリー商品は、防災用品として単独の棚を占有するのではなく、通常のカテゴリ棚(文具・キッチン用品・タオル等)に「フェーズフリー認証マーク」付きの1バリエーションとして並ぶケースが多い。これは、メーカーにとっては専用棚を新設する交渉コストをかけずに済む利点であり、小売にとっても防災意識の高い顧客層に対して、わざわざ防災コーナーに誘導しなくても通常の買い回りの中で訴求できる利点になる。
季節性
防災の日(9月1日)や防災週間(8月30日〜9月5日)、各地の防災訓練のタイミングでメディア露出が増える傾向はあるものの、フェーズフリー商品の本質は「季節を問わず日常的に消費される」ことにある。これは季節イベントに需要が集中しやすい従来型の防災用品(乾パン・保存水のまとめ買い等)とは対照的な特徴であり、通年で安定した売上が見込める設計だと言える。
プロモーション
認知:フェーズフリー協会が主催する「フェーズフリーアワード」の受賞や、フェーズフリー認証マークの取得自体が、メディア掲載を通じた認知獲得の手段になっている。コクヨが2021年に発売した「MULTIS(マルティス)」はフェーズフリーアワード2021で来場者投票による受賞を果たし、日本経済新聞をはじめとする複数のメディアに取り上げられた。
トライアル:フェーズフリー商品の多くは、既存の日用品カテゴリの通常品と価格帯・購入単位が大きく変わらないため、「防災グッズを新たに買う」という心理的ハードルなしに、いつもの買い物のついでに試せる設計になっている点がトライアルの後押しになっていると考えられる。リテンション:日常使いする消耗品・日用品である以上、消費すれば自然に買い替えが発生する。これは従来型防災備蓄の課題だった「一度買ったら終わり」を根本から解消する仕組みであり、後述するカテゴリ指標分解でも中心的な論点になる。
カニバリゼーション
フェーズフリー認証を取得した商品が、同じメーカーの非認証・通常版の商品の売上をどの程度代替しているかは、公開データからは検証できない。例えばコクヨのフェーズフリー家具「MULTIS」「GRABIS」「SOLOS」は、通常のオフィス家具ラインナップとカテゴリが重複するため、フェーズフリー認証がなくても本来購入されていたはずの什器需要を、単に「フェーズフリー版」に振り替えているだけの可能性がある。一方で、フェーズフリーという新しい価値軸自体が「BCP対策のための追加予算」という別の意思決定プロセスを引き出している面もあり、その場合は純粋な新規需要と見ることもできる。いずれの割合が大きいかは公開情報からは確認できない。
小売にとっての狙い:客数×客単価×購入頻度
売上を客数×客単価×購入頻度に分解すると、フェーズフリー商品が主に効くのは購入頻度(日常消費品であるため通常の防災用品よりも継続的に買い替えが発生する)と客数(従来「防災グッズは買わない」層が日用品としてなら購入する)の2つだと考えられる。客単価についても上位グレード品としてのプレミアム価格分でプラスに働くが、購入頻度と客数の押し上げに比べると相対的に副次的な効果にとどまると見るのが妥当だろう。
4. ショッパーマーケティング視点の分解
パッケージ
フェーズフリー商品の多くは、迷彩柄や「防災」の大きな文字を使った従来型防災グッズのデザインとは一線を画し、通常の生活雑貨・文具・インテリアと変わらない見た目で作られている。これは店頭で「防災コーナー」という特別な文脈に置かれなくても、日用品として自然に手に取ってもらうための設計だと考えられる。
購買トリガー
購買のきっかけは「災害に備えたい」という動機よりも先に、「これ、普段使いにも便利そう」という実用性の訴求であることが多い。フェーズフリー認証マークやアワード受賞歴は、購入後に「実は非常時にも役立つ」という付加価値として発見される、いわば二段階の購買トリガー構造になっている。
体験設計
日常的に使い、消費し、買い替えるという行動そのものが、意識せずとも備蓄・防災対応を更新し続ける体験になっている。これは無印良品が2008年から提唱する「ローリングストック」(日常的に消費しながら備蓄を入れ替える手法)と発想の根が同じであり、「備える」という一度きりの行動ではなく「使い続ける」という習慣に防災を組み込む体験設計だと言える。
ターゲットとなった性年代層
実際の購入者データ(性年代別)は公開されていないため、以下は市場調査や参入企業の傾向からの推測である。矢野経済研究所の調査では自治体・法人による導入拡大が指摘されており、BtoB(自治体・企業の備品調達)が市場拡大の一つの柱になっていると見られる。個人消費者に関しては、コクヨの家具やアシックス商事の商品などが対象とする層から考えて、子育て世帯や住宅購入・リフォームのタイミングにある30〜40代が、日用品の買い替えとあわせてフェーズフリー商品を検討するコア層になっている可能性がある。一方、フェーズフリーアワードの受賞やメディア露出によって「フェーズフリー」という概念自体を知る認知層は、防災意識の高まりを背景に性年代を問わず広がっていると考えられる。ただし実購入者の内訳は非公開であり、いずれも推測の域を出ない。
カテゴリ視点の指標分解
カテゴリ(防災・非常用品)の売上をカテゴリ購入率×購入者あたり購入金額に分解すると、購入者あたり購入金額はさらに購入者あたり購入数量(=購入頻度×1購入あたり購入数量)×平均単価に分解できる。フェーズフリー市場の急拡大にもっとも直接的に効いていると考えられるのは、カテゴリ購入率(従来「防災用品は買わない」層が日用品として新規に取り込まれる)と購入頻度(日常消費品であるため、防災カテゴリ従来の「一度買ったら終わり」という低頻度消費構造を打破する)の2つである。これはまさに本記事の仮説の核心部分であり、平均単価や1購入あたり購入数量への影響は相対的に副次的だと考えられる。
5. 実際の結果
矢野経済研究所の推計によれば、国内フェーズフリー商品小売市場は2024年度232億円(前年度比125.4%)、2025年度315億円(前年度比135.8%予測)、2026年度470億円(前年度比149.2%予測)と、2年連続で毎年3割以上の成長が見込まれている。フェーズフリー認証商品の数も2019年の認証制度開始から積み上げが続き、2024年12月時点で累計約100件に到達したとされる。同研究所は2025〜2026年を「普及フェーズへの移行期」と位置づけ、民間から公共、個人から組織へと市場が広がっていくと展望している。一方で、認知度の低さ・マーケティングの難しさ・価格ギャップ・法人導入の障壁といった課題も同時に指摘されており、この成長率が今後も維持されるかどうかは推測の域を出ない。また、これらの数値はあくまで矢野経済研究所という民間調査会社による推計であり、実際の各社売上の積み上げによる公式統計ではない点にも留意が必要である。
6. 購買導線
フェーズフリー市場は特定の1商品ではなく多数の企業・カテゴリにまたがる市場のため、単一の商品リンクで代表させることは難しい。フェーズフリー認証を取得した商品の一覧は、フェーズフリー協会が運営する公式サイトで確認できる。
7. 類似のインサイトから生まれた他商品
「防災専用品ではなく、日常品を非常時にも使えるよう設計し直す」という発想は、フェーズフリー認証という枠組みが生まれる以前から存在した。無印良品は2008年からNPO法人プラス・アーツと協業し、「くらしの備え。いつものもしも。」という企画のもと、普段食べ慣れたレトルトカレー等を賞味期限の長い備蓄食として提案し、消費した分だけ買い足す「ローリングストック」の普及に取り組んできた。また、モバイルバッテリーは本来スマートフォンの日常的な充電切れ対策として普及した製品だが、2024年の能登半島地震などを経て「日常的に持ち歩いているものが、そのまま被災時の生命線になる」という認識が広がり、EDC(Everyday Carry)用途と防災用途を兼ねる製品として選ばれる傾向が強まっている。業種も商品カテゴリも異なるが、「日常の消費行動の中に、意識せず防災機能を組み込む」という構造は共通している。
| 事例 | 仕掛け | 共通するインサイト |
|---|---|---|
| 無印良品「くらしの備え。いつものもしも。」(2008年〜) | 普段食べる食品をそのまま備蓄品として提案し、ローリングストックを普及 | 「備蓄する」という特別な行動ではなく、日常の消費サイクルに防災を組み込む |
| モバイルバッテリーのEDC化 | 日常の充電切れ対策として携行する製品が、災害時の生命線としても機能 | 日常の利便性追求がそのまま非常時の備えになる |
8. 法則の一般化
防災用品カテゴリ最大の弱点は「めったに買い替えない」という購買頻度の低さにある。この弱点は、専用の防災グッズを作るのではなく、すでに高頻度で消費されている日用品側に非常時の価値を後付けすることでしか克服できない。低頻度カテゴリの成長に行き詰まったとき、隣接する高頻度カテゴリに機能を溶け込ませるという発想は、防災に限らず応用できる法則だろう。
出典:矢野経済研究所プレスリリース(2025年7月28日発表)/一般社団法人フェーズフリー協会公式サイト/コクヨニュースリリース/日本経済新聞 等をもとに作成


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